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『江戸の子育て』 中江和恵 (文春新書315)

[読書ノート2005/No.003]
書名:江戸の子育て
著者名: 中江和恵
出版社: 文芸春秋文春新書315)
刊行年: 2003年 4月20日
定価: ¥714 (税込)

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借りたところ: 創価大学中央図書館
読んだところ: 自分の部屋。新宿と八王子の往復、京王電車のなか。
選んだ動機: 日本における近代から現代の教育問題などを学校で学んだりサークルで議論したりしてきたが、明治維新より以前の教育/子育て論というものにも単純に興味を持った。というか、近現代の国内における教育のあれこれを論じるには必ず読んでおかないといけないなと思った。

初読感をひとこと: はからずも、自分の子供の頃を思い出しながら読んでしまった。また、自分が親になったならああしたいこうしたい・・・とか思いがけぬ考えまでもが浮かんだ。期待したとおり江戸の子育てや教育の伝統を知ることで、江戸から近現代までの教育の流れがつかめたような気がする。というよりもむしろ、江戸から近現代までには幾度か大きな教育改革が行われたが、子育てという視点から考えるとその伝統は大きく変わりはしなかったのではないか。その伝統が失われ始めたのはつい近年のことではないか、と感じた。いずれにせよ僕にとっては、江戸時代の教育というものに興味を持つに至るきっかけの一書となった。

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自分が子供だった頃(1980-1990頃)にはまだ、この江戸の子育てにみられるような「社会が子供を育てる機能」がまだ残っていたような気がする。近所に住んでいたいろんな人の顔を思い出しながら読んだ。よく遊びを教えてくれる近所のおっちゃんの所で時間を過ごしていた。虫とかカエルとかザリガニを捕るときにはたまに大人の知恵を借りたりもしたし、道端に生えてる植物の中から食べられるものを探したり、色水を取って遊べるものを探したり、これも近所の大人の知恵を借りた。もちろん、テレビゲームや漫画も大好きだったが、それは別の次元だった。結局、外に出て近所の子供で集って暗くなるまで遊びを探し続ける毎日だった。

また、僕が親や親戚(じっちゃんばっちゃん含む)から教わった規範的なことがらの多くは、この江戸時代の子育てで紹介されている内容と同じであったのには驚いた。その正体は儒教の教えだとな。結局、仏教徒として生まれた僕も、基本的には儒教の教えで育てられたということになろうか(まあ、儒教と仏教は同居しやすいが)。とにかく、日本では近現代に至るまで儒教の教えは生きた知恵として子育ての伝統を形作ってきたのかな。

ただ、江戸時代の子育てのキーワードであると著者がいう「溺愛」、これに関しては経験した覚えはない。いや、おじいちゃんからだけは溺愛されたような記憶があるが(周りの皆がそうだったと言っている)、実際、僕が物心付く頃にはまったくしゃべらない寡黙な人になっていたし(ボケてたわけじゃない)、僕の留学中に他界してしまったからなあ。時代の変化の中でなにか物思うといったような人であった。(そして、僕はこの人と似ているらしい。)

さて、ちょっと横道にそれたが、そんなことを思いながらこの本を読んだ。読んでるとき雑念が多くて集中できなかったかな。そして今もまとまった文章が書けそうにない。

いずれにせよ、ここで言いたいことは、江戸時代からつい2、30年前に至るまで、大きな教育改革を幾度か経験しながらも、子供の視点からみれば(子育てと言う観点からみれば)伝統はあまり変わらず伝授され続けてきたのではないか。そういう考えを得ることが出来たのが一番の収穫だった。

というのは、牧口の教育論(明治-戦前)には江戸時代のそれと似たようなものも多くあることを感じたのだが、それはある意味、牧口の言ってることは江戸時代の教育の習慣から見れば、当たり前すぎるような内容を繰り返したに過ぎない、とも言えてしまうからである。そんな視点を持つことが出来たことは牧口を多角的な視点から見るうえで非常に有用なものであろう。

しかし、それでも牧口がエライのには変わりあるまい。まず、論じるというのは、先行するものを繰返し続けるのは当たり前だ。その中でも、牧口は体系としての教育学を志向し、海外の教育学なども読み、それらを含めた上で、結局日本の伝統的な教育学を体系的に纏め上げることに成功した。それだけでも、超一級品の成果である。さらに、よき伝統があるというのに国家主義的な教育統制によって蹂躙され始めた日本の教育に対して、また「新教育運動」の一向に進まない現実に対して、牧口は堂々と問題点を指摘し、さらには自ら校長となりそれらを実践した。

また、話がそれたので元に戻そう。一度内容をまとめてみる。江戸時代の子育てとは、子に対する愛が足りない、ということはまれで、むしろ愛が過剰すぎて困ったというはなしであった。それは繰返し批判されたりもしたが、それでも手習い(習字)と読書にうまく導くことができれば、あとはいわゆるコミュニティーという生活環境(人倫)の中で良い子供に育っていくからOKだったという。表面的にこれを取るとすれば、いかにも理想的な教育を江戸の人たちはやっていたんだなあ、ということになる。ちなみに、客観的にみても当時の教育水準は世界的に高かったことは事実である。

ところで、僕はこの本を読んで初めて知ったのだが、18世紀の半ばには「心学」というものが流行り始めたようだ。心学とはけっして教育学というわけではないが、教育の問題も積極的に論じた。当時の生活レベルにまで浸透していた儒教と仏教の教えにはそれぞれ「天命」と「因縁」という考えがあった。これは、子供の善し悪しは生まれながらにして決まっているとした「遺伝決定論」のようなもの。それに対して心学者が説いたのは、子供の善悪は教育によって変えられると反論した「環境決定論」であったといえる。ちなみに、法華経は「環境決定論」というか「それなら環境を変えてやろうじゃないか論」だよね。

最後に、著者にはそんな意図は無いと思うが、この本には少々ノスタルジックな感じを受ける。つまり、昔は良かった的な考え方だ。というのは、「序にかえて」の中ではイサベラ・バードやモース、オールコックを引用したりしているが、それらに対する批判に対しては認識していないのか、何も書かれていないからだ。彼らは、日本人ほど子供を可愛がる人々はいないだとか、日本には捨て子や子供の間引きがなかったかのような言葉を残しているが、実際はそうとは言えなかったのである。今でこそマスコミなどがセンセーショナルに報道するので、一見子供の虐待は近年になって急増しているように思ってしまうが、事実昔の方がひどかったのである。子供の捨て子や間引きだって日常的なものであった。とはいえ、ちゃんと育てる子供として親が認知すれば、他の国よりも特別に子供を可愛がるような民族であったのだろう。

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コメント

>自分が親になったならああしたいこうしたい・・・とか思いがけぬ考えまでもが浮かんだ。
その前に結婚という問題がつきまとう訳だ。

わざわざ読んでくれたんだーてか最初だけ?
結婚は意識に浮かんだことがない。子育てなんて夢物語な訳だ。

そう、最初だけ(笑)おじいちゃんが儒教とかなんとかのあたりまで。

こんな長文読めんわ~ムズ過ぎ(´Д`)

ごめん、なんかいつも自己満足な文章で。
自分の書いておきたいことを全部書こうとするから長くなる。自分で読んで分かるからそれ以上推敲しない。人が読むことはあまり意識に無い・・・人に読ませる文章を書くというよりも後に読み返すであろう自分に対して語り聞かせるつもりで書いてんのよねぇ。

少なくとも最初の数行で言いたいことをまとめられるように練習しようと思います。ご期待あれ・・・

あのなが~い、「自身に影響を与えた5冊、いってみよう企画」の記事はどーなったん?

そろそろ書き上げる予定。わざわざ全部読み返し始めちゃってね、これがまた話がまとまらないわけですよ。

わははは。わかる、その気持ち!

おれはあえて、無理矢理5行ぐらいに凝縮させてんけど。音楽編の方はもっと長くなりそう。どうやってOrganizeするか思案中…

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